二十八

代表ストーリー

株式会社 二十八(ふたや)

代表取締役 原  巨樹(はら  なおき)

はじめまして、二十八の原巨樹です。私が呉服屋で目指すものは、「職人の後継者を残したい」という目的、ただ一つです。

その目的を達成するために最も大切なことが、流通を変え、職人から着物ユーザーの皆さまを含めた「製造から販売、着物の楽しみ方までのグランドデザイン」をやり直すことです。皆様の着物にまつわる喜びを一層大きくし、それが職人のやり甲斐、賃金になるような好循環を作ろうと考えます。

以前、私は海上自衛隊で勤務していたのですが、遠洋航海で南米を回る中、文化が持つ平和のメッセージに強く気付かされました。そして文化のメッセンジャーになるためには、どの国の人間であっても、まずは自国文化をよく知り、身に付けることが第一歩です。日本に帰ってくる艦内で、日本全国の風景写真と、山口百恵さんの「いい日旅立ち」に何度も涙を流しました。

そうした気持ちで帰国してから、早速呉服店に足を運んで着物を購入してみたものの、満足を得られることは多くありませんでした。私の印象として、呉服店は惰性で商売をやっており、品質も分からない品物を「良い品物は高価ですから」とうそぶいて販売しているように見えました。

そして、私の呉服屋としての起業を決定的にしたのが、全国の着物産地に赴き、職人さん達に出会ったことです。全国の職人さん達は真面目で一生懸命仕事をしているにも関わらず、時給ベースで50~200円というような収入の職人さん達もいました。それにも関わらず作られた商品は、複数の問屋を通るという複雑な流通構造によって、呉服店に並ぶ時には100万円、200万円を超える高値となることもあります。

そんな環境ですから、職人の超高齢化に加えて、若手の後継ぎがいないというのは当然の状況です。それを職人さん達が改革しようにも、これまでの商慣習があるために何もできず、職人技術は滅びることを待つばかりでした。

私自身は職人を目指しても良いし、メーカーや問屋になっても着物文化を守る礎になれると思いましたが、最も正しい考え方が必要なのは呉服店だと思い至りました。なぜならば商品及び職人技術の価値を消費者にお届けし、適切な価格で提供する約束をできるのが呉服店であり、素晴らしく日本人らしい職人さん達が全国にはまだまだいてくれるからです。

戦後の沖縄では、米軍が捨てた麻袋に、レコードを割ったヘラで、紅型染めを続けたと聞いています。そんな戦後の大変な時代にあっても文化を繋いでくれたのに、現代ほどの豊かな時代にあって、着物文化を守れないのは日本人として恥だとも思いました。近代のみならず、1500年、2000年にわたる日本の歴史に対しても、私は勝手に責任を感じ、最初は独りぼっち、何もないところから京ごふく二十八を始めました。そんな二十八も地道に活動を続けることで多くのお客様と支援者の方々に恵まれて、活動をさらに大きくして行くところです。

 

もしお着物をこれからもっと楽しみたいと思っておられるあなたのお役に立てれば本当に嬉しいです。

 

 

 

インタビュー

(起業経緯について 於:FVC Mesh KYOTO)

和服文化の担い手・職人を守り、着物の良さを未来に伝える。

四条烏丸からほど近い京都・室町は、かつて日本の呉服の中心地だった。

今から30年ほど前までの室町通は、その両側がまさに呉服屋で埋めつくされていたのだ。ところが時代は移り、呉服産業は今や完全な斜陽産業である。そんな中、一人の起業家が、日本の呉服文化を守るために立ち上がった。

 

どんなお仕事をされているのですか?

京ごふくを受注生産し、いささか常識破りの低価格で提供しています。主な扱い商品は、京ごふくの最高峰といわれる手描き京友禅と西陣織の帯です。注文に応じて、職人さんたちが図案を一から起こして仕上げる京友禅は、百万円以上の商品も少なくありません。けれども、呉服業界の因習を打ち破ることで、極めてリーズナブルな価格で提供できる、これがうちの強みです。 

 

ご出身は大分で、前職は東京です。なぜ縁もゆかりもない京都で起業されたのでしょう。

呉服づくりは、お客様の注文を承ることからスタートします。お客様の要望をきめ細かく伺い、それを職人さんが理解できる言葉に私が翻訳して伝えるのです。京友禅の名匠がどこにいるかといえば、やはり京都。だから本場での起業にこだわりました。実際こちらに来てわかったのが、職人さん同士の伝統的ネットワークが、まだ生きていること。仕事をいただいてくることで、このネットワークを次の世代に伝えていくことも、私の使命と考えています。 

 

元は海上自衛隊の幹部だったと伺いました。

高校卒業後、防衛大学校に進みました。建築士へのあこがれもあり、進路についてはずいぶん迷いました。けれども、普通の大学に行けば、おそらくは易きに流されてしまうでしょう。まずは社会人となる前に自分を徹底的に鍛える。それならば尋常ではない環境が良いと考えました。実際、朝6時半の起床に始まり、分単位のスケジュールで管理され、過酷な訓練や上級生からの厳しい指導で鍛えられる毎日は、自分の中に、日本の歴史を継承するという矜持を埋め込んでくれたと思います。毎年、学生の多くが辞めていく中で、4年間がんばりぬけたことは、自分にとって大きな自信となっています。 

 

前途有望な自衛官が、あえて衰退産業の呉服業界で起業する。その理由を教えてください。

何より私自身、着物が大好きなのです。呉服こそは和文化の象徴であり、後世に残さなければなりません。自衛官時代に海外に行くことがあり、そのたびに感じたのが日本文化のすばらしさです。

自衛隊を辞める頃、初めての着物を誂えました。それからの数年で、自衛隊時代の蓄えもすべて着物に注ぎ込みました。時代が変わり、ライフスタイルがどれだけ変化しても、日本人が世界で自信を持てる装いは和服。そんな思いが、私の中では確信となっています。ところが呉服業界について学び始めると、かけがえのない文化が、絶滅の危機に瀕していることを知ったのです。小売店や問屋がダメになっていくのは自業自得ですが、呉服文化の真の担い手である職人さんだけは、誰かが守らなければならない。それこそが自分の天命だと悟りました。

 

とはいえ極めて古い体質の呉服業界での新規参入は難しいのでは?

だからこそチャンスがあるでのではないでしょうか。呉服業界がダメになった理由は、旧態依然とした体質を引きずっているからです。小売価格が百万円を超える京友禅で、手描きの職人さんが得ている報酬は驚くほどわずかです。業界には古くからの因習があり、極めて複雑な流通経路があるからです。そこに風穴を空ければ良い。そうすれば職人さんにはこれまでより多くの工賃を払うことができ、なおかつお客様には従来より安く提供できます。しかも、お客様の要望を伺って望み通りの品を仕上げるのです。お客様は必ず喜ばれるし、その喜ぶ姿は職人さんにとって仕事のやりがいに繋がります。

 

まるで職人さんのために呉服屋を営んでいるかのようです。

職人さんを守るためにも、ビジネスとしてきちんと成立させることが必要です。いま最も深刻な問題は、職人さんの後継者がいないこと。職人になりたい若者はたくさんいるのですが、受け皿となる働き口がありません。翻って呉服業界の流通の中で、商品一点あたりの利益が最も大きいのは小売店です。ですからこれからの時代は小売店が職人を育て雇用して行かねばなりません。残念ながら呉服業界には、そんなことを考えている関係者はほとんどいないでしょう。だったら自分がやるしかない。若輩者が生意気なことをいうようですが、稲盛氏のいわれる「私心」なく仕事に取り組んでいるつもりです。

 

自衛官だった方が、どのようにして呉服の知識を身につけたのでしょうか。 

自衛隊を退官したあと、知人の不動産会社で経営全般を学びました。この時に得た教訓が「リスク管理を徹底し、家賃と人件費を抑えれば、会社は続けられる」ということです。その後、無職になって全国の着物産地をめぐっていたので、1ヶ月5万円の生活費で暮らしていました。食費は毎月5000円でしたから、近所の農家で野菜を買い込み、業務用パスタで食べるような生活でした。でもこの時に人生は非常に味わい深いなぁと実感しました。後に志ん生師匠の「貧乏は”する”もんじゃありません、”嗜む”ものです」という名言に心打たれたものです。夜行バスで全国の着物産地をまわり、職人たちから膝つき合わせて話を聞く。まさにわくわくする体験でした。その後、東京で呉服屋に就職したのです。ここで5年ほど勤めて、徹底的に既存呉服店のノウハウを身に付けました。その上で新しい呉服ビジネスの仕組みを計画していたので、独立したら絶対に成功すると確信を得たのです。

 

株式会社二十八の経営者として、今後の展望をどのようにお考えですか。

必ず日本一の呉服屋になります。そして一人でも多くの職人後継者を作ることが目標です。またこんな思いで呉服に賭けている人間が京都にいる、そのことを一人でも多くの方に知っていただくことが、喫緊の課題です。

 

ご自分を漢字一文字で表すと何でしょう?

「真」、これが私の目指す人生です。呉服屋としての真実の姿を追求し、和文化という自分にとっての真実を生涯かけて追い求めいく。それが自分にとっての「真」につながる。そんな人生を京都で歩んでいきたいと考えています。

 

 

 

 

『立志篇』

【1980年6月】大分県生まれ。大分舞鶴高校卒業。空手を9歳から続け、高校生の時には九州大会で優勝。

【1999年 18歳】防衛大学校に進学。クルーザーヨット部に在籍し、学生チャンピオンとなって世界大会に出場。高校時代から好きだったファッションの趣味を追求する一方、古美術品、盆栽など日本の古いものを愛でるようになった。法隆寺宮大工、西岡常一棟梁に傾倒。

【2003年 22歳】海上自衛隊で約3年間の勤務に就く。海上自衛隊では5ヶ月かけて南米方面への遠洋練習航海に参加。諸外国の文化に触れる中で、日本文化を守る仕事に就こうと決意した。

【2005年 25歳】退官後は、江ノ島近くで新規事業を立ち上げていた知人の会社に勤める。同社で飲食店の店長などをしながら、ビジネス全般を学ぶ。27歳の頃にはかなりの金額を着物に費やした。

 居住地:大分県大分市(稙田)、神奈川県横須賀市(走水)、広島県呉市(江田島、護衛艦内)、岡山県玉野市(造船所内)、神奈川県藤沢市(片瀬海岸)

 

『修行篇』

【2008年 27歳】同社を退職し、呉服屋になるための修行を開始。まず7ヶ月間、全国の着物産地を巡って、様々な企業、職人を訪ね歩く。その中で最も危機感を抱いたことは、高い技術を持った職人さんであっても賃金が極めて低く、流通における立場が弱いことだ。

そうした地方の職人さんの中には、日本人として非常に素晴らしい人間性を持つ方も多く、感動的な交流を数多く重ねることができた。そうした職人さん達に私の夢を応援してもらう中で、自分の生涯をかけて職人さんの労働環境を改善し、後継者を作りたいという使命感が一層強固なものとなった。

28歳から、銀座の呉服店にて5年4ヶ月に及ぶ修行を行う。

 居住地:神奈川県横浜市(戸塚)、埼玉県川口市(元郷)

 

『起業篇』

【2014年 33歳】京都で株式会社二十八を設立。京ごふく二十八を日本一の高級呉服企業に育て上げて行く。職人技術に関する理解、商品知識、コーディネートなどの技術に加えて、自社で製造プロデュースできることが強み。

居住地:大分県別府市、京都府京都市(東山区、下京区) 

 

呉服屋が天職であり、着物に対する情熱は日本一です。

 

 

私の人生に影響を与えた本

・「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美」:西岡常一著(小学館)

・「魯山人陶説」:北大路魯山人著、平野雅章編(中公文庫)

・「修身教授録」:森信三著(致知選書)

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