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なぜ原巨樹は呉服屋を目指したのか

京ごふく二十八  代表  原 巨樹

はじめまして、京ごふく二十八(ふたや)の原 巨樹(はらなおき)と申します。皆さん、着物をご購入になる際、「どんなお店で、どんな着物を買えば良いのだろう?」とお悩みなったことはおありでしょうか。私も25才で初めて着物を購入した時にはまったく着物の知識もない素人でした。当時住んでいた広島の街で、ぶらりと入った呉服店で購入したのが初めてのことです。当時購入したのは単衣の紬、角帯、絞りの長襦袢、足袋などで、合計25万円ぐらいしたと思います。25才の男性としては高い買い物です。そんなところからスタートした私の着物ライフですが、その9年後(呉服屋になってから6年後)に京都へ引っ越して、ベンチャーの呉服屋をスタートさせました。それも糊糸目(のりいとめ)友禅によるフルオーダーの販売をメインにしており、呉服関係者の方々には、呉服屋として一番むずかしい販売スタイルだと言って頂きます。そんな私が着物の素人から、どうやって京都の呉服業界で少しだけ注目される存在になれたのかをお話しします。

 

はじまり

大分にて

[大分県大分市]

私は1980年、大分県大分市に生まれました。よくお尋ね頂きますが、実家も呉服屋とは関係なく、父は家を建てる仕事をしていました。空手を9歳から続け、高校生の時には九州大会で優勝したこともあります。また、地方の中学生、高校生なりにファッションは好きでしたので、昔の友人と話すと「当時からカシミアがどうこうとか、素材にえらく執心していた」と言われます。
他にも大好きなものはたくさんありましたが、一つ自分でも自覚があるのは、熱中したことに対しては周囲の誰にも負けないぐらいの知識を得るまで吸収していたことと、それを自分だけの世界としてものすごく大切にしていたと思います。たとえば映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は小学生の頃から大好きでしたが、高校生ぐらいの時には同映画のセリフをほとんど全て覚えていました。そんな趣味がいくつもあったと思います。

この自分が好きになったものに対する集中力が、現在の呉服屋稼業にも生かされています。例えば、まだ呉服屋になる前に奄美大島で教わった「1マルキは経の絣糸82本のこと」と教わって呉服屋に行くと、まずマルキを正確に理解している人がいないし、よく知っている人でも1マルキは「80本」と言っていたので、素人ながらに「82本だよな」などと思っていました。

大分舞鶴高校を卒業するとともに、愛する故郷の大分を離れます。

 

防衛大学校から海上自衛隊へ

[神奈川県横須賀市、広島県呉市、遠洋航海(南米)、岡山県玉野市]

1999年 18歳にして、ひょんなことから防衛大学校に進学します。一言で言えば、「自分を鍛えるために」防衛大学校への進学を決めました。高校生の頃、私が建築学科への進学を目指していまして、建築関係の仕事をしていた父親の友人に「なぜ防衛大に合格しているのにそちらへ進学しないのか」と問われ、「防衛大は厳しい学校だと聞いているので」と答えたら、『そのぐらいじゃ建築業界ではやって行けないな」と言われ、非常に悔しく涙したのが防衛大進学を決意した瞬間でした。まず、自分を鍛えようと。当時は世間一般

に今に比べても自衛隊への認知度は低かったですし、私も自衛隊なんて全く考えたこともないような高校生でした。高校生の頃は遅刻も多く、担任の先生からも「お前なんか防衛大に行っても絶対に辞めるよ」と言われて送り出されたことを覚えています。

進学して防衛大学校の学生となったのですが、思った以上に集団生活にも馴染んで持ち前の集中力を発揮することができました。クルーザーヨット部に在籍し、学生チャンピオンとなってフランスの世界大会にも出場しましたし、イタリアの海軍士官学校から毎年招待されるヨットレースに参加したことも良い経験でした。

大学が横須賀にあったので週末の休みには鎌倉で陶磁器を購入したり、骨董品を見るようにもなって行きます。19才の時に法隆寺宮大工、西岡常一棟梁の著書を読んで痛く感動し、先人の偉大さを感じるとともに「昔のような職人がいないから今はもう作れない」という観念にチャレンジ精神が湧き続けています。

2003年、22歳から海上自衛隊で約3年間の勤務に就きます。海上自衛隊では5ヶ月かけて南米方面への遠洋練習航海に参加し、諸外国の文化に触れる中で、日本文化を守る仕事に就こうと決意しました。色々な経験をしましたが、どこの国を回ってもやはり世界では国というものを大切にしているなと感じます。入港するとレセプションパーティが開かれて、必ずその国を代表する踊りや音楽、食事でもてなしてくれます。それも各国の人たちが何とも自慢気にもてなしてくれている様子を素晴らしいなと思うと同時に、日本と自分を振り返りました。

「果たして現代日本のどこに行けば、日本を実感させてくれる文化に出会えるのだろう?」

この遠洋航海がきっかけとなって、帰国したら着物でも買おうと思ったのでした。この頃から将来は文化的な関係の仕事に携わりたいと考えていましたが、それはビジネスで結果を残した後だと考えていました。防衛大学校では日本の歴史を振り返り、パブリックのために尽くすということを非常に深く教えてもらいました。それが現在、呉服屋の道に進む決心をさせてくれた大きな原動力です。

 

初めての着物

[広島県呉市、神奈川県藤沢市、横浜市]

冒頭にも書いた通り、初めて着物を購入したのは広島県の呉服店においてでした。その後、自衛隊という大きな組織を離れて自分の人生を歩みたいということから2005年から知人の会社に勤めさせてもらいました。そこから着物の道へさらに大きく舵を切ることになります。

初心者としての失敗

私は着物でたくさんの失敗を重ねました。普通の人が「失敗しないように」、「恥をかかないように」という風に考えることに対して、私は「とりあえずやってみよう」と思うタイプの人間だからです。20代の女性でも、結婚式が終わったらホテルで着替えて2次会にはドレスで行くなんていうのは、2次会に振袖だとフォーマル過ぎるとか、街中を振袖で歩くのは気が引けるという気持ちがあるのでしょうし、きっとお母様からそうした教育を受けておられるからでしょう。私ははっきり言って、そういう意味ではそもそも常識があまり無いと思います。私の着物に関する失敗は山のようにありますが、いくつかご紹介してみます。

失敗1:単衣と袷、予算配分

最初の着物購入は海上自衛隊にいる頃で、街中で見掛けた呉服店にぷらっと入ったのですが、地域のちゃんとしたお店だと今でも思います。私は何かにハマると、とにかく詳しくなりたいタイプですので、店員さんにもそれにしっかり答えてもらいたいと思いました。ただ、一生懸命な女性の店員さんだったのですが、男性客がそもそもいないことなどもあって十分な満足を得られなかったと記憶します。

その時は単衣(6、9月の仕立て方)の紬を購入したのですが、単衣にした理由は裏地をつけるとその分だけ高かったからです。その時、単衣と袷を着用する季節の違いについて説明してもらった記憶はありません。また長襦袢が必要ということで、こだわり派の私は自分の好みの柄を伝えるために、数十枚に及ぶ図案集のコピー資料を自作して伝えました。それぞれにコメントまで入れたと思います。その結果、「竹に雀」を絞りで表現した非常に立派な長襦袢を購入することとなったわけです。その金額は13万円ぐらいしたと思います。トータル25万円の中の13万円、大きいです。その予算内、今の私なら確実に羽織を買って、着物を袷にし、長襦袢は簡易なもので済ませます。その方が少しきちんとした場所にまで着て行けるからです。また袷になれば着られる季節も長くなります。

失敗2:男性着物の寸法

それでも自分の購入した着物、コーディネートは良かったので気に入って着ていたものの、どうしても着崩れします。男性は帯が細いので少し着崩れしやすいのですが、特に私は身長176センチのわりに体重が58キロほどですので、胴体は細くて手が長いという体型。一般的にはいわゆる着物には向かない体型です。作ってくれた店にサイズが合わないことを伝えましたが、なかなか対応をしてもらえません。呉服店ではよくある「普通はこれで大丈夫なんですけど。。。」というお決まりの文句です。そしてその後、何度も色んな呉服店で聞かされた、

「あなた、もっと太らなきゃダメよ!」

という言葉。国を挙げてメタボを減らそうとしている世の中で、着物に合わせて太らないと着物を着られないという論理が呉服店にはありました(今でもあります)。私はよく食べる方ですが、体型は細いままでしたから、なかなか着物姿が決まらないのです。色々と工夫を重ね、中で紐をつけたり、衿のピンを使ったりなどしながら試行錯誤もしました。しかし、どう考えても“昔の日本人が全員小太り”だったとも思えませんし、小細工なしで着られることが望ましいと感じていました。そのことに対して何度も予算と時間と工夫を重ねて改善して来たのです。

そして現在では衿留めのピンも使いますが、なくてもそれなりに着られるようになったと思います。一番の解決策は寸法で、2番目に大事なのが生地だと考えています。完璧というのは難しく、いまだに作るたびに寸法は変えますが、それでも工夫をすれば色々なことは改善できると思います。私はそこに到達するまでに多くの予算と時間と情熱が掛かってしまいました。

 

二十八だからこそできるサポート

皆さんはお着物に詳しいですか?

お詳しい方には二十八の初心者向けお手伝いは必要ないかも知れません。しかし、現在の40〜50代の方の親御さん世代、60〜70代のお母様世代でさえ着物に詳しい方がとても少なくなっています。そんな現代にあって、40〜50代の女性が「そろそろ着物を着て冠婚葬祭に」と思われた時に頼れる人がいないようです。

今でこそ私もプロの呉服屋として知識を身につけていますが、数多くの失敗を重ね、随分回り道をして来ました。ちゃんとした大人の皆さんには私みたいに失敗して頂きたくはないですし、こんなに失敗した私だからこそ、皆さんにも恥ずかしがらずにご質問頂けるのではないかと思っています。

 

呉服屋になる決意

日記にも残っていましたが、私が呉服屋になる決意をしたのは平成19年2月18日、28歳の時でした。その前年から大変多くの着物を購入し、色んな場所でも着ましたし、一人で旅して着物や伝統工芸品の産地を回りました。また地元、大分県別府市の履物店の店主さんにも色々と注文して作ってもらっていました。

大分県別府市の履物店

鼻緒を挿げてもらったり、柾目(まさめ)の下駄などを注文する中で、職人技術がどのように優れているのかを詳しく教わりました。職人技術の優れた所というのは理に適っていることが多いので、理系だった私にも納得の行くことばかりでした。帰省した折、その履物店に伺うと3〜4時間滞在するのはいつものことでした。そんな素人の時に理解したことですが、実際今でも役立つ知識ばかりです。例えば雪駄に鼻緒を挿げるのは下駄や草履に比べて難しいことですが、本場の草履屋さんでもできない人はできなかったりします。雪駄の内側を通っている芯を通すように挿げなければ、その後、鼻緒が動いてしまうのです。また、別府の職人さんに草履の仕組みを教えてもらったので、応急処置ぐらいであれば、私も自分でもこなせるようになりました。

九州のみならず四国からも仕事が集まるような素晴らしい職人さんだったのですが、いつも最後に決まって出てくる言葉は「履物屋なんかが後継ぎを作ることは絶対に無理やな。やめといた方が良い」ということでした。とにかくそんな後継ぎを育てるほどの仕事が無いというのが理由です。それでも20代の私がこれだけ魅力を感じているわけですし、世の中には着物を着ている人もゼロではないのに、なぜこうした文化が無くなってしまうのだろうと憤りを覚える日々でした。

作って頂いた下駄の御礼をと思って、神奈川県にある藤沢駅の喫茶店でその履物職人さんに手紙を書いていると、そうしたことへの悔しさが溢れ出て来て涙がボロボロこぼれていました。

「どうしてみんな日本の文化や伝統技術が失われて行くことが悔しくないのだろう」。

島根県へひとり旅

色々と募る思いもあって、日本らしいところに旅をしたいと思い、島根県を回ることにしました。算盤の産地である亀嵩、安来市では出雲織の著名な作家さんの工房や、安来織の工房などを回り、大変充実した旅となったのですが、やはりこちらでも同じく後継者の問題を聞かされることとなります。

島根県の方々、特に著名な作家さんの所も、非常に親身になってご対応いただけました。昔のお話や、収入が不安定でも飛び込んできている若い職人さんの存在なども、日本らしい良さを身近に感じられた素晴らしい経験となりました。

自分で買った本場結城紬

そんな私が消費者として一番最後に購入したのは本場結城紬でした。真綿から職人さんが手で糸を紡ぎ、地機で手織りするという着物好きにとっては憧れの着物です。私もどうしても欲しかったので高価でしたが、思い切って購入しました。それからは毎日、空いた時間があると羽織って喜んでいたものです。家と会社が近かったので昼休みに帰宅して、結城紬を着て休憩し、またスーツに着替えて会社に戻るなんていう日もあったぐらいです。

そんな私に、またもや呉服店の方から聞かされたのは「後継者がいない」という話でした。これはそのお店がということではなく、結局、呉服店というのは職人の後継者がいないということさえ、売り文句の一つでしかないのだなという印象を持ちました。現在の私も、本当に作れなくなってしまった商品などがあった時にはそういうことをお伝えすることはありますが、できれば言いたくない言葉だからこそ、お伝えする時には身が引き締まる思いです。

そして、私は「20代の自分がこれだけ高価な結城紬をどうしても買いたいんだということを、作ってくれた職人さんに伝えたい」、そんな風に強く心に思い描くようになりました。この頃には自分が呉服屋になることを意識していたと思います。

呉服屋になることへの使命感

着物や職人さん達に大変魅了される経験を重ねる一方で、呉服業界の構造問題を聞くにつけ、この先どんなに自分がお金を稼いで呉服店で着物を購入したところで、職人さん達の厳しい現状や後継者問題は絶対に解決されないだろうという結論に至ります。

「自分が呉服業界に飛び込んで変える」

素人としては商品に対して非常に詳しかったと思いますが、呉服屋としての知識はゼロだった私がそのように決意してお世話になった会社を辞めます。仕事を辞めてしまうと、その後の自分の生活がどうなってしまうか分からなかったですが、「自分の生活」と「日本の歴史が培ってきた着物文化」を天秤に掛けた時に、自分の生活はとても軽く、着物文化を守るということは本当に重みがあって人生を賭けるにふさわしい目標だと思いました。

私自身、28才の時に、自分の周囲で着物や伝統工芸に対して強い興味と危機感を持つ人は誰もいませんでした。それなりに呉服関係者とも会っていましたが、職人さんは別として私のように感じている呉服関係者も見当たりませんでした。同世代の20代においては着物に興味を持つ人すらいません。

だからこそ、「自分がやらなかったら他にやる人はいない」という使命感を持つに至ります。

 

呉服屋としてのあゆみ

呉服屋の始め方を考える。

2009年、28才にして、向こう見ずにも呉服屋になるべくとにかく会社をやめてしまいました。しっかりとお給料を頂いていたのに、すっかり着物を買ってしまって貯金はありません時々派遣の仕事で倉庫などに行きながら、お金が入ると全国の産地を訪ねます。

結局、7ヶ月間の無職をすることになりますが、結果的に7ヶ月で済んだだけで、その間は「いつまでこの生活が続くのか」と一人押し潰されそうな気持ちになる毎日でした。宙ぶらりんで、生活も成り立たず期限もないというのは怖いものです。しかしながら、その時に何度も思ったのが、

「日本の先輩が長い年月の中で積み重ねて来た[着物や文化の重み]と[自分の生活]を天秤に掛けた時に、自分の生活なんて羽よりも軽い」

ということでした。その時点では呉服屋としての実力もゼロで、資金力もこれからの目処も何もなく、あるのは使命感と自分に対する自信だけでした。もちろん多くの方々から「絶対無理だからやめておけ」と言われつつも、それだけ無謀なことにも関わらず、自分がこれだけやってみたいと思っているんだから、これは人生を賭けるに値する目標だと思いました。

様々な企業、職人を訪ね歩く中で、最も危機感を抱いたことは「高い技術を持った職人さんであっても賃金が極めて低く、流通における立場が弱いことです。
そうした地方の職人さんの中には、日本人として非常に素晴らしい人間性を持つ方も多く、感動的な交流を数多く重ねることができました。そうした職人さん達に私の夢を応援してもらう中で、自分の生涯をかけて職人さんの労働環境を改善し、後継者を作りたいという使命感が一層強固なものとなったのです。

その後、ある呉服店で5年4ヶ月の間、働かせてもらいました。

 

ひとまずここまで。[このストーリーは書いている途中なので、また書いていきたいと思います。]

 

目指すもの

私が呉服屋で目指すものは、「職人の後継者を残したい」という目的、ただ一つです。
その目的を達成するために最も大切なことが、流通を変え、職人から着物ユーザーの皆さまを含めた「製造から販売、着物の楽しみ方までのグランドデザイン」をやり直すことです。皆様の着物にまつわる喜びを一層大きくし、それが職人のやり甲斐、賃金になるような好循環を作ろうと考えます。
以前、私は海上自衛隊で勤務していたのですが、遠洋航海で南米を回る中、文化が持つ平和のメッセージに強く気付かされました。そして文化のメッセンジャーになるためには、どの国の人間であっても、まずは自国文化をよく知り、身に付けることが第一歩です。日本に帰ってくる艦内で、日本全国の風景写真と、山口百恵さんの「いい日旅立ち」に何度も涙を流しました。
そうした気持ちで帰国してから、早速呉服店に足を運んで着物を購入してみたものの、満足を得られることは多くありませんでした。私の印象として、呉服店は惰性で商売をやっており、品質も分からない品物を「良い品物は高価ですから」とうそぶいて販売しているように見えました。

そして、私の呉服屋としての起業を決定的にしたのが、全国の着物産地に赴き、職人さん達に出会ったことです。全国の職人さん達は真面目で一生懸命仕事をしているにも関わらず、時給ベースで50~200円というような収入の職人さん達もいました。それにも関わらず作られた商品は、複数の問屋を通るという複雑な流通構造によって、呉服店に並ぶ時には100万円、200万円を超える高値となることもあります。

そんな環境ですから、職人の超高齢化に加えて、若手の後継ぎがいないというのは当然の状況です。それを職人さん達が改革しようにも、これまでの商慣習があるために何もできず、職人技術は滅びることを待つばかりでした。

私自身は職人を目指しても良いし、メーカーや問屋になっても着物文化を守る礎になれると思いましたが、最も正しい考え方が必要なのは呉服店だと思い至りました。なぜならば商品及び職人技術の価値を消費者にお届けし、適切な価格で提供する約束をできるのが呉服店であり、素晴らしく日本人らしい職人さん達が全国にはまだまだいてくれるからです。

戦後の沖縄では、米軍が捨てた麻袋に、レコードを割ったヘラで、紅型染めを続けたと聞いています。そんな戦後の大変な時代にあっても文化を繋いでくれたのに、現代ほどの豊かな時代にあって、着物文化を守れないのは日本人として恥だとも思いました。近代のみならず、1500年、2000年にわたる日本の歴史に対しても、私は勝手に責任を感じ、最初は独りぼっち、何もないところから京ごふく二十八を始めました。そんな二十八も地道に活動を続けることで多くのお客様と支援者の方々に恵まれて、活動をさらに大きくして行くところです。

もしお着物をこれからもっと楽しみたいと思っておられるあなたのお役に立てれば本当に嬉しいです。

 

 

私の人生に影響を与えた本

  • 「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美」:西岡常一著(小学館)
  • 「魯山人陶説」:北大路魯山人著、平野雅章編(中公文庫)
  • 「修身教授録」:森信三著(致知選書)

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この記事を書いた人
原 巨樹 (はら なおき)

京ごふく二十八代表。2014年、職人の後継者を作るべく京都で悉皆呉服店として起業。最高の職人たちとオーダーメイドの着物を作っている。

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